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自己満足系気まぐれ更新日記

2020/11/24   「気の緩み」って何だろうか

新型コロナの感染再拡大を受け、

最近こういう言葉を目にすることが増えた。

 

感染拡大の原因は、気の緩み。

 

 

気の緩みって、何なのだろう。

 

 

これを言い続けて久しいが、

そもそも私は、

感染拡大対策を個人の自意識強化に頼るやり方が、

今でも本当に嫌でたまらない。

 

○○を自粛するよう呼びかけ。

未だに「自粛」「控えるように」と、「呼びかけ」。

 

何だそりゃ。

 

ずいぶん楽なお仕事、なさってるじゃないの。

 

 

感染症の「対策」としての「自粛」とか「控えて」って言葉には、

私はまだ全然、慣れることができないよ。

何を誰がどれだけいつぐらいまで控えれば、

ご立派に自粛しましたね、って話になるのかしら。

そう言ってもらえない人が「気が緩んでいる」のならば、

どういう人が、それに当てはまるのかしら。

 

GoTo キャンペーンも始まったことだし・・・と、

外出をずーっと我慢し続けてきた人が

前々から決めていた旅行に行ったら、

これは気が緩んでいるのだろうか。

 

今まで職場で仕事の合間に

同僚や友達と他愛もないお喋りができる環境だった人が、

最近在宅勤務を決めたなら、

それは気が引き締まっているのだろうか。

 

取材に行かなくても仕事はできるっちゃできるけど、

やっぱ取材なしの仕事って質が下がる。

いつまでもこのままじゃいられないので、

最近少しずつ取材に出かけるようになりました。

これは気が緩んでいるのだろうか。

 

自営業の知人の店にようやく客足が戻って、

苦しんでた知人もやっとホッとした顔してる。

よかったなぁと思うし、とても嬉しい。

この嬉しい気持ちも、気の緩みだろうか。

 

 

「そんなの、一概にどうとは言えない」

きっとそう言われるのだろう。

だったら、

いつまでそんな曖昧なものを、

行政が言うところの「危機的状況」にある感染症の「対策」として、

良しとしているのだろう。

そんなに人の移動や接触が高いリスクをはらんでいるなら、

さっさと法律でも条令でも整えればいいのに。

それができないのは、

いろんな業種、状況、健康状態の人がいる中で、

規則と補償の線引きをするのが

難しいからなんだろう、きっと。

難しいから、

「呼びかけ」などという無責任なやり方で、

責任逃れをしているんだろう。

そう見える。

そうやって今までずっと来たくせに、

再び感染が拡大したら「気の緩み」。

 

 

冗談じゃないよ。

 

 

新聞やネットニュースの文字でこの文字を見ても

私は十分嫌な気持ちになったので、

これをテレビで見ていたら

胸糞の悪さが瞬時にあふれ出ていた所だろう。

コメンテーターが神妙な顔でそれを語って、

やはり一人一人が気を付けることが大切ですよねー、

何々さんはどう思いますか?

とか言う司会者が話を膨らまして、

字幕とパネルが画面に貼りついてて。

・・・なーんて考えるだけでゾッとする。

本当に今、テレビから離れていて良かった。

本当に。

 

 

「只より高い物はない」ということわざは、

みんなご存じかと思うのだけど、

私、

コロナ禍における「自粛」って、

これに近いと思うのよ。

 

 

タダって、一時的には得かもしれないけど、

あとで頼まれ事を断りにくくなったり、

お礼はいかほどすれば良いのやら・・・と悩んだりして、

かえって面倒だし損になる。

ことわざの意味はそういう事だけど、

それってつまり、

何かがどれぐらいの価値に相当するかは

人それぞれ感覚が違うのだよ、

って教えだと、私は思っている。

 

だから、貰いものに対するお返しひとつ取っても、

「お返し貰ってしまった・・・。気を遣わせちゃって悪かったな・・・。」

みたいなことになる場合もあれば、

「え!お返しがこれって、ちょっと非常識では?」

なんて言われちゃうことだってある。

 

でも、

良いか悪いか、どっちの言い分が合っているかとかじゃなく、

そういうものなのだと思う。

それが普通というか、

人間ってそういうものだと思う。

それぐらい、

「個人の意識」「個人の事情」なんてものは、

揃わなくて当たり前。

だから、

対価もルールも発生しないところで、

「私はあんなにしてあげたのにこの人ときたら・・・」

なんてデカい声で言うのは、

ちょっと違うと私は思う。

井戸端会議程度のテンションで語るならまだしも、

大っぴらに「良くないと思います!」なんて言うのは、

すこぶるナンセンスだと思うのだ。

そんな文句を言ったり、

後から困ったりするぐらいなら、

初めから、

「いくらで譲るよ」とか、

「こういう取引話があるんだけど」とか、

言うべきだと思うの。

大々的に文句言うならね。困るならね。

別にそこまで困らないし、表立って文句も言わないよ、

っていうなら、いいと思うよ。

「嫌よねー。ちょっと私、あの子とは気が合わないかも~。」

ぐらいで済む話ならさ。

 

 

でも、

なんっっっっか私は

今の日本における新型コロナ対策事情って、

さっきの話で言うところの

「そう言うなら最初からそんな話にするなよ」的なケースと、

同じものを感じてしまうのよね。

人によって感じ方も物差しも負担の度合いも違うものを、

法整備も何もなく

ぜーーーんぶ人任せにされてきたのに、

それじゃ足りない、よろしくないみたいなことを、

公的な場で言われるのって、

ずるいと思うし、気分悪いわ。


しかもそれが、

私はこれぐらい気を付けてるのに

気を付けてない人がいるせいで・・・

みたいないがみ合いに、

また火をつけることになるじゃないの。

そういうの、本当に嫌。

息苦しくてたまんない。

でも、

そういう嫌な気分を紛らわせるために何かしようとしても、

その選択肢がまた、狭められるのよ。

あれはよくない、これはなるべく控えて。

これを言うと、良い顔されないかも。

我慢、我慢、我慢。

 

その我慢の糸がフッと緩んだら、

「人々の気の緩みで感染が拡大しました」

 

いつかは緩むだろ。

緩めるだろ。

ずっと張りつめたままで生きていける人なんか

そうそういないし、

だからこそ皆、

これぐらいなら大丈夫かな?どうだろう?って、

探りながら過ごしてるんじゃないのか。
なのにそれを背徳みたいに語るのって

どうなのよ。

行動制限の線引きを

ずっと個人の良識に委ねてきたくせに、

今さらそういう言い方、どうなのよ。

生きてるんだよ、みんな。

 

 

「人の移動が増えました」

「マスクをしない会話・会食が増えました」

それだけだったら事実を伝える言葉でしかないが、

そこに、

「気の緩み」という言葉を付け加えることの意味を、

慎重に、

繊細に、

神経擦り減らすくらい真剣に、

是非に考えてもらいたい。

ある程度の影響力がある人たちは。

 

「ある程度」ってどの程度だろうね。

 

それは人によって、

感じ方も物差しも、

違うんじゃあないのかしらね。

 

ねぇ。

日記 
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