home sitemap

ざっくり PIERROT 歴史。

PIERROT のこれまでを、時代を区切って何となく紹介。

PIERROT結成〜デビュー前まで

バンド活動や音楽のルーツはわりとメンバーによってバラバラ。
元々は、キリトが仕事で長野に住んでいたころ、仕事の合間の暇つぶし的な趣味でギターを始め、
そのときに複数人の客の一人として訪れたバーで
バーテンのバイトをしていた潤と出会ったのが PIERROT の始まり。
お互い音楽をやっているということで話が合い、
そのまま何だかんだでバンドを組むに至る。
それまでは音楽なんてほとんど興味もなかったキリトと、音楽は好きだけど歌謡曲で育った潤という
まあまあバラバラな2人の組み合わせ。
そこに、音楽をやりたかったというよりバンドをやりたかったという、
これまた違ったタイプの KOHTA を加え、
PIERROT の前身となるバンド「Dizy-Lizy」が活動開始。

このときキリトはボーカルではなくギター担当で、名義は「SHINYA」だった。
もう一人のメンバーでありリーダーでもあったのが、
キリトの職場の先輩であり、ギターを始めるきっかけを与えた HIDELOW(ヒデロウ)。
この人が、ボーカルを担当していた。

その後、バンド名を「ピエロ」に改名。
正式メンバー不在だったドラムパートに TAKEO が加入してからほどなくして、キリトがボーカルに転向。
ヒデロウは身を引く形で脱退。
最後にアイジが加入して、現在の PIERROT となる。

この辺の話は、キリトのエッセイ「思考回路」で語られているのがちょっといい話なので
興味があったら是非どうぞ。
そこに描かれるキリトの葛藤に「・・・キリト!(じーん)」ってなります。
そんな中、他のメンバーはメンバーで
ヒデロウとキリトのどちらをボーカルに据えるかの選択を迫られることになった訳だが、
加入からまだ日が浅かった TAKEO は
「・・・俺はどうしたらいいか分からない・・・!!」
ってなったらしい。笑

ちなみに、まともにバンドを組んだのはこのバンドが初めてというキリト、潤、KOHTA に対し、
TAKEO とアイジは別バンドでの経験がある。
しかもアイジはボーカル経験者。
信じられない。

TAKEO 加入前のドラムパートは、
サポートメンバーの他、リズムマシーンによる打ち込みで主に対応。
このとき、キリトが音楽理論ほとんど無視(っていうか知らない)でリズムパートを作っていたのだが、
叩く人がいないので当然文句を言う人も誰もおらず、
結果として、変テコなリズムの曲が多く出来上がる。
PIERROT の変態リズムはこうして生まれ、
そのあと、その変態リズムを叩く羽目になる TAKEO は自動的に変態ドラマーになる。
TAKEO さんを変態にしてくれてありがとうキリト。

キリアイ潤コータケの5人となったピエロは
埼玉のライブハウス「浦和ナルシス」を拠点に活動。
埼玉という地はキリトとコータの実家がある土地。
この頃、長野から戻ったキリトは、コータと共に実家暮らし。
その後2人とも実家を出るが、
キリトはコータの家がどこにあるかよく分かってないなかったという不干渉っぷり。
対する潤、アイジ、TAKEO は真逆で、男3人で同じ物件に住んでいた。
ピエラーの間じゃ有名な「スーパーサイン事件」はここで起きる。
アイジ、潤の一人ゲネプロを目撃!事件もここで起きる。

お金がない時代はよく、料金が安い深夜〜朝方にスタジオ籠り。
ラジオでしていた、深夜のスタジオで心霊現象を見た話は、正直ぶっちゃけマジで怖かった。
お金ないからツアーだって自分たちで機材車運転して回ってた。
ここでもやっぱり心霊エピソード。
ホントに恐いからやめてってば!
ちなみに、一番運転が上手いのは TAKEO さんで、
運転はともかく、すぐに道に迷って独り言を言うのが潤。

インディーズ時代に、フルアルバム、ミニアルバム、マキシシングルを1枚ずつリリース。
2作品目の、ミニアルバム「CELLULOID」のときに、表記が「ピエロ」から「Pierrot」に変わる。

この頃には既に、渋谷 ON AIR EAST(現在の「TSUTAYA O-EAST」)や赤坂 BLITZ クラスで
複数回のライブを成功させる動員力を身に付ける。
メジャーデビュー前夜の中野サンプラザのライブでは、
キリトお得意の「ぶっ壊しちまえ!!」の煽りで盛り上がりすぎたピエラーが本当に会場の設備(確か椅子)をぶっ壊し、
「中野サンプラザ出禁」という花を添えられながらデビューを迎える。

デビュー〜初期

インディーズ時代のうちに固定客を獲得、知名度もライブ動員力もある程度まで達していたため、
わりと鳴り物入りな雰囲気で 1998年 9月 10日メジャーデビュー。
デビューから武道館ワンマンまでの日数(約半年)や、ドームワンマンまでの日数(西武ドーム、628日)は
当時最短記録という快進撃だった。

デビュー当時は髪色や衣装が割とカラフル。
キリトの黒髪ツンツンヘアーとアイメイクの十字ペイントが何よりのトレードマークだったが、
それと同じくらい、アイジの青っぽい紫髪とハーフパンツ+厚底ブーツとか、
潤の、横〜後ろの髪をカールで反りあげる、通称「エスパー」という髪型も特徴的。
どんな髪型だか想像つかない人、
「エスパー」は「エスパー魔美」の「エスパー」です。
はい、ここから先はググってね。
さすがに毛先が真上向くほど反り上がっちゃいないので、
アニメよりも漫画のエスパー魔美のがイメージ近い。

ビジュアル系の王道パターンに漏れず、メイクも濃かった。
特にメイクで変身 TAKEO さんの、麗しさ、可愛さと言ったらもう、凄い。
そういう意味じゃ コータはこの時から安定してた。多少アイシャドウが濃かったくらいで。
デビューシングル「クリア・スカイ」は、
インディーズの作品からすると、急にキャッチーになった印象。
キリトいわく、いい意味での裏切り。
そして 2nd シングル「MAD SKY -鋼鉄の救世主-」は安定のインディーズテイストに回帰。
キリトいわく、いい意味での裏切り。
同じやんけ。
要は、デビューではインディーズV系好き以外の層も引き入れるための意表を突くアプローチ、
次はそこで掴んだ層に PIERROT ワールドを見せつけるためのアプローチ、
ってとこらしい。
策略家キリトは昔から健在。


デビュー後しばらく、潤とキリトはデブ担当。
丸顔の潤キリは若さを漂わせると同時に、とにかく可愛かった。
キリトは尖った一面と可愛い一面が表裏一体な感じではあったが、
潤はカッコイイ時「も」もある、ぐらいの勢いで可愛い路線。
そしてデブ路線は常にキリトの一歩前を行っていた。
アイジは昔から細かったので、ギターは足して2で割ってちょうど良し。

デビュー後半年ほどたったとき、
名物ラジオ「Pierrot BRAIN STORM」、通称「ブレスト」が放送開始。
PIERROT の芸人力を世に知らしめる。
パーソナリティはキリトと潤。
まぶしいくらいの黄金コンビ。
PIERROT もビジュアル系もわかりませんって人が聞いても普通に笑える神番組で、
「何だこいつら!?」的に、この番組で PIERROT を知った人も結構いた。
視聴者からの質問に、キリトが嘘八百の答えをそれっぽく語って説き伏せる「屁理屈世紀末の法則」とか、
わんばんこ、がとうあり、まいうー等の業界用語をピエラーに浸透させた「あべはんの使える業界用語講座」など、
名物コーナー多数。
当時はまだまだ音楽業界もマスメディアもバブリーだったので、
罰ゲームで高所恐怖症の潤をヘリで飛ばしたり、
ラジオなのに沖縄ロケしたり。
あの頃はいい時代だった。
6th シングル「AGITATOR」では海外ロケまで。
マスタリングだって海外。
いい時代だった。

デビュー翌年には 1st アルバム「FINALE」をリリース。
この時表記が、大文字表記の「PIERROT」に変わる。
それまで「Pierrot」名義だった作曲クレジットも個人名に。
その翌月、マリリン・マンソン主催のロックフェス、
現在のサマーソニックの前身である「Beautiful Monsters Tour」に何故かお呼ばれ。
日本人で呼ばれたのは BUCK-TICK と PIERROT だけというびっくりラインナップ。
確かに驚くかもしんないけどさ。
これを、音楽評論家の伊藤政則が自身のラジオで
「何で PIERROT みたいなバンドが出られるのか分からない」とか堂々と言ったもんだからさあ大変。
ライブ前から「敵は伊藤政則だ!」と血気づくキリトは、当日の MC で爆弾発言。
洋楽ファンからは大ブーイング、アンチ洋楽かぶれ層からは拍手喝采。
PIERROT の知名度がまた少しアップする。
何て言ったかは Wikipedia にも載ってるので是非どうぞ。
デビューして1年そこらの青二才バンドがこれを言い放ったかと思うと
今でも胸のすく思いです。キリト節。

勢い止まらぬ PIERROT、
この年の年末には、PIERROT 伝説の頂点を語るにふさわしいお騒がせライブ、
「THE GENOME CONTROL」を開催。
何がお騒がせって、ツアーファイナルなのに観客なし。
ライブは、全国数カ所の街頭ビジョンやライブハウス、衛星放送とインターネット配信で生中継。
インターネット動画配信なんて、
当時はやっと ADSL が普及してきたって頃だからあんまりやってる人がいなかった。
今と違って通信激遅、映像なんてカックカク。
これを機に PC 購入したのにヤキモキ感半端ナス!ってピエラー多数。

このライブのキャッチコピーは、
「可能が不可能になり、不可能が可能になる。」
内容が分かるまでは意味不明だったが、
可能が不可能になるって、
今までは見られたはずのツアーファイナルがこんな形でしか見られないってことか・・・!
と衝撃走るピエラー界。
そしてこの生中継の最後、新宿アルタ前にてゲリラライブ実施が発表される。
うおおおお今度は不可能が可能になったぁぁぁあー!!
さらなる衝撃走る。自身も走る。急げピエラー、新宿へ。
渋滞で到着が遅れたこともあり、演奏はたった2曲だったが、
その間、新宿アルタ前は真っ黒なバンギャたち魑魅魍魎の絶叫の嵐。
各地の中継地もそれなりの騒ぎだったのに、
そいつらが今度は新宿アルタ前に押し掛けたもんだから、
怪我人が出たり、騒動の責任を取らされてスタッフが逮捕されそうになったりと、
そりゃもう大変な騒ぎだったらしい。
ファンの反応としては、
「これは考え付かなかったー!予測不能でハラハラしたー!」的に楽しんだ派の意見の一方で
「観客なしなんてやっぱりありえない!」という反対派の意見もまたあり、賛否両論。
その論争自体がキリトの思うつぼであって、
結局、うまいこと手の平の上で操られたピエラーたちであった。
このライブのモチーフ的な存在だった楽曲「CREATURE」では
ミュージックステーションにも出演したが、
演奏の最後でキリトがマイクスタンドをぶん投げ未遂して壊したせいで、この番組を出禁になる。

そんな慌ただしい年末を経て、翌年今度は初のドームライブ。
会場の西武ドーム前には、PIERROT 広告で彩られた電車が発着したりして、
実にお祭り騒ぎなライブだった。
「AGITATOR」って、まんま PIERROT のことじゃんか!
ってタイトルのシングルを引っさげ、
扇動者よろしく3万人の前に立った PIERROT、というかキリト。
この時初めて PIERROT ライブを生で見た私は
「よく集まったな3万人のキチガイども!今日は歴史が変わる記念日だ!」とか言うキリトを見て、
あの人マジで教祖なんじゃないかと思った。
それまで恐る恐るつま先を出したり引っ込めたりしていた私、
ついにこれでピエラーの世界に両足を突っ込み、あっという間に肩まで浸かって今に至る。

この AGITATOR の頃を境に、メンバーのルックスは落ち着きを見せ始める。
なんといっても驚いたのが、
AGITATOR のアー写でナチュラルメイクを晒した TAKEO さん。
一つ前のシングル「CREATURE」で、KOHTA がトレードマークの金パを黒髪にした時もなかなか驚いたが、
そんなものは TAKEO のこれに比べれば何でもなかった。
カラコンもりもりつけまつ毛のガングロギャルがすっぴんになった時とほぼ同じ衝撃。
派手な髪型ばっかだった潤が黒髪ナチュラルになったのにも結構びっくりしてたのに、
そんなの吹っ飛ぶインパクトで、ピエラーの話題をかっさらう。
麗し系からオッサン系へ。イメチェンなんてレベルではなく、もはや別人に変身を遂げる。

中期〜後期

2nd アルバムから 3rd アルバムにかけては、PIERROT 作品クオリティ絶頂期。
2nd アルバムの「PRIVATE ENEMY」は
1st の「FINALE」とは打って変わって、かなりダークで重々しい雰囲気。
対する 3rd アルバム「HEAVEN」は、開放感溢れる華々しい雰囲気。

1st の「FINALE」からこの「HEAVEN」までは、ストーリー的にガッチリ繋がりがある。
「FINALE」の主人公アダムとイブは、
何度も生まれ変わりながらいくつもの時代を経て、最後の曲「Newborn baby」で突然変異。
それで生まれたのが次作シングルの「CREATURE」、意訳して怪物。
そんな怪物が産み落とされてから苦悩して生きる様を地獄になぞらえたのが「PRIVATE ENEMY」、
その先に見えた希望が「HEAVEN」。

この、キッチキチに組み立てられた作品演出こそが PIERROT のお家芸。
HEAVEN リリース後、「HADES SIDE」「REAL SIDE」「HEAVEN SIDE」と各日テーマを変えた
武道館 3days ライブまであった。

このストーリー演出もなかなかのものだが、
楽曲としてのクオリティもこの3部作の間に一気にアップ。
といっても、「FINALE」より「PRIVATE ENEMY」、はそうかもしれないが
「PRIVATE ENEMY」より「HEAVEN」かと言われると
一概にそう言えるもんでもない。
特に「PRIVATE ENEMY」と「HEAVEN」はあまりにも作風が違っているので、
コンセプトも含めた好みによる所が大きい。
どちらにせよ、メジャーデビュー後の作品で名盤といったら
このどちらかを挙げるピエラーがほとんどだと思う。


「PRIVATE ENEMY」のリードトラック「ENEMY」は、シングルカットもされてないのに
この曲でゴールデンタイムの音楽番組「HEY! HEY! HEY!」に出演する。
今の時代じゃ考えられない。
特技のけん玉が成功したり失敗したりで、MC のダウンタウンに「どっちやねん!」といじられる KOHTA。
テンション低いのによく喋るといじられるキリト。
いじられてないのに浮き足立つ潤。(ダウンタウン大好き。)

1st アルバム直後あたりから徐々に可愛さがデクレッシェンド気味になってきた潤は
この頃になると、短髪、黒髪、眉には刺青風ペイント、いつの間にかピアスまで。
徐々にとはいえ、1st アルバムの頃、あわや女子というルックスだったことを思えば
メンバーいちイメージが変わったと言って良い。
但し、一時的な所で言ったら一番はキリト。
アー写では、赤髪に白のカラコンで完全にマンソン化。
いきなりテレビに映ろうもんなら、子供が泣くレベルの怖さだった。

インディーズ時代から PIERROT を見てきたピエラーにとっては、
「FINALE」みたいにバラエティに富んだアルバムよりも、
「PRIVATE ENEMY」みたいなアクの強い雰囲気の方がなかなかしっくりきたと思われる。
なのにこのあとの PIERROT ときたら、
「PARADOX」、「DNA」まではいいとして、
そのあといきなり Xmas感満載な「COCOON」をリリースしたり、
聴きやすさたっぷりなバラード「壊れていくこの世界で」をリリースしたりと、
徐々に方向転換をし始める。
でも、おやおやと思ったあたりで出たのが「HEAVEN」で、
CREATURE 物語の ハッピーエンドってことだったのか!!ていうストーリー的納得感と、
アルバムとしての完成度の高さとで、
結局何だかんだでいい流れ、
むしろここが黄金期かというところに落ち着いた感。
でも、次のシングル「PSYCHEDELIC LOVER」がこれまた爽やか路線。
PIERROT ちゃーん!カムバック!

と言いつつ、この「PSYCHEDELIC LOVER」は後々ライブの定番曲になっていき、
だんだんピエラーの人気を得ていった曲でもある。

ちなみに、「PRIVATE ENEMY」のリリースを最後に東芝 EMI を離れ、
「DRAMATIC NEO ANNIVERSARY」から UNIVERSAL MUSIC に移籍した PIERROT。
その間に出されたシングル「PARADOX」はインディーズ盤という位置づけで、
TOWER RECORDS 渋谷店限定 1万枚という形で発売された。
そんな PIERROT史に残るこのシングル、
作曲者は潤なんですぜ。
ひゃっふー!!


「FINALE」から「HEAVEN」までの三部作を世に送り出し、一旦、それまでの大きな流れがひと段落すると、
そこから先、想像の世界のストーリーから、今現在の世の中に向けたメッセージや社会風刺を効かせた作品へと
徐々に作風がシフト。
シングル曲では爽やかキャッチー路線を行き続ける PIERROT に
ちょっとだけ背中が遠のく感を覚えつつも、
C/W やアルバム曲では何だかんだで皮肉満載な PIERROT イズムが生きていたり、
「PSYCHEDELIC LOVER」の次のシングル「HILL -幻覚の雪-」では再び昔っぽさが戻ってきたりで、
それなりの安定感もあったり。
でも、ストーリーというよりはメッセージ性、
楽曲的にもシンプルなロックに寄せてきた 4th アルバム「ID ATTACK」は、
コンセプト志向も控えめで、「なんかちょっとちがーう」感を抱えるピエラーもまずまずいた感じ。
トゲはあってもクセは少ない、みたいなところが、
PIERROT の個性って意味ではちょっと物足りなかったのかもしれないが、
私、このアルバム好きなんだけどな。
ただ、この頃のキリトは作品演出も兼ねたオラオラ全盛期で、
MC でアメリカに文句言ったり、ピエラーに説教垂れたり、ちょっと俺様が過ぎる感が目立っていた。

この頃の潤は、潤史上ズバ抜けて神がかったカッコ良さ。
だってまず、細身って言ってもいいかもしれないくらい痩せたんだから!奇跡!
痩せたらノンスリーブ衣装似合いすぎな超絶男前になって
雑誌のグラビア一枚一枚にフガフガするほど大変だったんだからねほんと。
鼻血ブーだったんだからねほんと。(死語)

でも、潤と並んでデブキャラだったキリトは、
潤よりも更に前にもっと痩せていて、こちらはとっくに文句なしの細身体系に。
しかも痩せたら脱ぎキャラに変貌し、某ツアーのファイナル公演ではメンバー全員脱ぐ事件勃発。
かつてデブ仲間だった潤にまで、そのとばっちりを食らわせる。
その頃潤はまだ、痩せてる途中だったのに。

後期〜解散まで

ちょっと記憶が定かではないが、4th アルバム「ID ATTACK」の前後あたりから、
ピエラーの間で PIERROT 解散説が囁かれるようになる。
どっからどう伝わったか覚えていないが、
噂のメインはキリトとアイジの不仲説。
ソロをやりたいアイジが PIERROT から心離れ気味、
特に、PIERROT 最優先主義筆頭なキリトとの間に溝が・・・的な感じ。

またこの頃、キリトはキリトで、
インタビューでの発言やライブ MC などから
なんだかワンマンぶりが加速している的な空気を醸し出し、
もしかしてキリトってバンド内で浮いてる?的な雰囲気を見せ始める。
ファンクラブ限定で販売された、ATTACK [to] THE FREEDOM ツアーの DVD のオフショットには、
スタッフに罵声を浴びせたり、手当たり次第備品をぶん投げたりと、
思春期男子さながらに荒れるキリトの様子が収録され、
私なんかは見ていて「うへぇ!」もしくは「あちゃー!」を連発だった。

そんなキリトはともかく、他のメンバーにも多少の変化は見て取れた。
目に見えるところで言っても、
何かと内面が態度に出がちなアイジは、ライブでのローテンション率が如実に高まったり。
アイジに限らず、
ファンクラブ会報で、今までメンバー同士がワイワイキャッキャしながら取材を受ける様子が見てとれた記事が、
同時インタビューじゃなくて個別インタビューやアンケート回答に変わったり。
活動休止中なので当然ではあるが、
PIERROT としての活動を見つめ直すような記事がチラホラ出たり。

まーでもみんな、大人になって落ち着いたってことなんでしょ。
ぐらいに思っていたノーテンキな私みたいな人間にとってみれば、
さほど気にならない程度のものではあったが、
実際そのあと、アイジ・潤のソロ活動希望が公になる。
キリトの口からは、今後の PIERROT はどうなるか分からないという言葉。
もしや噂って、、、な空気が漂い始める中、
解散の可能性は否定されることなくソロ活動優先期間に入り、
5th アルバム「FREEZE」をリリース後、
PIERROT としては約1年の間一部活動が休止(単発ライブはあるが新作のリリースはなし)となる。
この「FREEZE」がまた、今までの PIERROT らしからぬ作品。
お家芸だったコンセプト志向はほとんど見られず、
よく言えば新しいが、悪く言えば特徴なく面白味に欠けるアルバム。
インタビューで潤が、「FREEZE」を一言でいうと「裸一貫」と語っていたのが、
個人的には印象深かった。

ソロ活動や解散との因果関係はさておき、
その頃 PIERROT は所属事務所と少々揉めていたらしい。
端的に言うと、
キリト一人なら金になるけど PIERROT としてはそうは思ってない、
的なことを言い出した事務所にキリトご立腹。
契約解消まで話が進んだかどうかはよく分からないが、
だったら独立してやる、とばかりにキリトは個人事務所を設立。
ソロ優先期間中、「KIRITO」名義での活動をこの事務所を通じて行う。

その他のメンバーのソロ優先期間中の活動は以下。
・アイジ → LM.C 結成
・潤 → ALvino 結成
・TAKEO → ドラマー上領亘とのプロジェクト「G-Brain」でゲームサントラに参加

KOHTA は特に目立った活動はせず、サポートで演奏をしたりぐらいだったような。(記憶曖昧)
キリトはこの期間でシングル 2枚、アルバム1枚をリリース。
アイジと潤のバンドは、対バンが企画されるも急遽中止に終わり、音源リリースも特になし。
ちなみに対バンのマネジメントは元の所属事務所。
このあたりは、事務所と揉めていた背景を考えると、ちょっとおやおや?な感じ。

そのまま活動休止期間終了となった PIERROT は全国ツアーを決行、
今後の PIERROT をどうするかは、ツアーをやりながら決めていくというスタンスだったが、
結局そのファイナル公演にて、
PIERROT はメンバー全会一致で続投が決定したことが、キリトの口から発表される。
PIERROT はもう二度と解散するかもとは言わない、死ぬまで PIERROT をやっていく、
というキリトの言葉に次いで、
各メンバーのソロ活動も、PIERROT と並行して活動継続となることが伝えられた。

いろいろあったがめでたしめでたし、と思ったのも束の間、
2006年 4月 12日に、公式Web サイトにてキリトから突然の解散発表。
ソロ活動を優先させたいメンバー(アイジ、潤)との意思の統一がはかれず、
これ以上 PIERROT を続けていけないとの判断に至ったというのが理由。
この発表は、解散しない宣言の約3ヶ月後、ラストライブとなったファンクラブ限定ライブのたった10日後という唐突さで、
それはもう、ピエラーというピエラーが驚いた。

ちなみに、
そうは言っても、ある意味「やっぱりそうか・・・」的な印象だったアイジに対し、
潤のボイコットには多少の意外性を感じたピエラーも多かった。
事前の噂がアイジほど聞こえてこなかったというか、アイジに気を取られていて油断したというか。
何となく平和主義者なイメージが定着していたってのもあるが、
実は決めたら動かない頑固さを持ち合わせているのもまた潤。
最後は、何度目かの潤の説得に向かおうとするスタッフに、
キリトが、
多分あいつは決めたら絶対曲げないから、こうなったらもう無理だと思うよ、
と言い放ち、実際そのとおりになった、というエピソードには、
付き合い長いからこその理解がこんな形で、、、というやるせなさ。

その後、キリトに続き TAKEO、KOHTA も公式サイトにてコメントを発表、
その更に数日後、アイジ、潤からもコメントが発表される。

それからは、雑誌インタビューなどで、キリト、TAKEO、KOHTA からは解散について語られる機会があったものの、
アイジ、潤は沈黙を守る。
インタビューによれば、アイジ・潤は、キリトの「解散しない宣言」には実は納得していなかったらしいとか何とか。
解散時のアイジ、潤の公式コメントもスタッフを通じて出されたもので、
この時ですらキリト・TAKEO・KOHTA と、アイジ・潤とは言葉を交わしていなかったという話を知った時は
そんなところまで不和が進んでいたのか・・・!と驚いたものだが、
話はそれだけに止まらず、最後はアイジ、潤と音信不通状態になり、
結局はまともな話し合いもできなかったというブッ飛びエピソードまで飛び出して、
またしてもピエラーは腰を抜かす事態に。
音信不通って!
潤とタケオさん、あんなにラブラブだったのにお別れするときはこうなのね!?

そんな急転直下な解散劇、状況が状況なだけに解散ライブもなく、
事実上、仲違いの末の空中分解という形で PIERROT は終わったことになる。

そういうわけで、当時のピエラーの世論的には、戦犯はアイジ・潤。
罵詈雑言がネット上に飛び交う一方で、
後期にかけて、キリトの言動がだんだん勘違いワンマンキャラな方向に傾いていくのに
良からぬ思いを持っていたピエラーからは、
アイジ・潤を擁護する意見もちょくちょく見られた。

でも、結局はアイジ・潤が何も語らない以上、全ては憶測に過ぎず、真相は闇の中。
その後キリト、TAKEO、KOHTA により結成された Angelo の活動が始まり、
アイジの LM.C、潤のALvino も軌道に乗り始め、
PIERROT についての話題はタブー扱いのまま、何年もの時間が流れる。

ちなみに、
ラストライブとなったファンクラブ限定ライブで最後に演奏された曲は「SEPIA」。
ラストのサビの歌詞が「いつの日かこれでよかったと何気なく思うのだろう」というのが
何ともハマりすぎてて皮肉な感じ。

再結成

2014年 4月 9日、ネット上に突如
「PIERROT 2014.04.12 18:00 新宿アルタビジョン」とだけ書かれたサイトが出現。
この時刻に新宿アルタビジョンの映像にて
2014年 10月に再結成ライブを開催することが発表される。

映像では、ラストシングルとなった「HELLO」の PV の最後、キリトがマイクを蹴倒すシーンに続いて、
それを拾い上げるキリトの映像が流れ、次いでライブ開催発表。
ライブタイトルや日程もこの時に映像で流れた。
アルタ前のピエラーは阿鼻叫喚の様相。
ちなみに私は仕事で徹夜明けの翌日、
ネットニュースのトップ面に出ていたのを、寝ぼけた頭で見て知った。
再結成の事実よりも PIERROT がトップ面に出ていることに驚いた自分は、
瞬時に状況が飲み込めなかったという証拠だなーと振り返る。

なぜ再結成ライブをやるのか、そして何でこのタイミングなのかは、この場でもそのあとも全く説明なし。
再結成ライブ当日のキリト MC によれば、
このバンドに理由なんて求めても無駄、やりたかったから、以上!
だそうだ。
その潔さ、べらぼうに素敵。

ちなみに、ライブ開催が発表された 4月12日は PIERROT 解散の日、
新宿アルタ前はかつて PIERROT がいわくつきライブ THE GENOME CONTROL のファイナル公演でゲリラライブを行った場所。

このアルタ前発表の日で PIERROT 解散から経った日にちは丸8年になるが、
それまでの間、再結成に関しては何の前触れもなかったので
ピエラー界の驚きようといったらとんでもなかった。
が、しかし、
厳密に言うと「なんの前触れも無かった」は微妙に嘘で、
この1年ぐらい前に、潤が Angelo のライブを見に行ったことを、
キリト、潤が各々のブログに載せたことが予兆といえば予兆。
互いのブログにツーショット写真まで載っていて、
こっちの方が本当に唐突で衝撃走った。

ライブのタイトルには、PIERROT が現役時代に単発ライブの名前として使っていた「DICTATORS CIRCUS」がまた使われたが、
かつては「DICTATORS CIRCUS V」「DICTATORS CIRCUS W」のように連番が付いていたのに対し、
この時のタイトルは「DICTATORS CIRCUS FINAL」。
復活早々 FINAL ってどういうこと!と思ったが、
よくよく考えれば、メジャー初アルバムのタイトルに「FINALE」とかつけちゃうのが PIERROT なんだった。

初日の1曲目に演奏された曲は、ほとんどのピエラーの予想どおり「HELLO」。
実際のステージでも、アルタ前の映像と同じように倒されたマイクを拾い上げ、
サビの「あの日を思い出そう」の箇所で解散当時の「8年前」の「8」を手で示したキリトに気付いたときは、
コノー!相変わらずのピエラーたらしめ!!
と、にんまりせずにはいられなかった私。
そんな始まりを見せたライブは、いざ始まってみれば特に「ファイナル」感は何もなく、
8年越しだがいつもの PIERROT という感じだった。
多少のぎこちなさはもはや誤差みたいなもんで、
昔のことについて語るつもりは無いと言い放ったキリトにも、ひたすら敬意感じるのみ。


更にその約3年後、2017年7月に
DIR EN GREY との合同プロジェクト「ANDROGYNOS」で2度目の再結成。
この時は本当にぎこちなさなんてほとんどなく、
「PIERROT が帰ってきた!」感が凄かった。

ANDROGYNOS 公演終了後は、PIERROT としての予定は何も発表なし。
2度あることは3度あるし、
私としては、期待しないと言いながらこっそり期待しつつ、
気長に次を待つことにしてみた。 PIERROT のトップへもどる。